【仮説としての絶対主義】なはずなわけでしょ、それをある種、絶対化してしまう人は困る。
尚、世の中に絶対ということはない。
【仮説としての絶対主義】なはずなわけでしょ、それをある種、絶対化してしまう人は困る。
尚、世の中に絶対ということはない。
入試が終われば真逆の生き方をしましょう。
自未得度先度他と行きたい。
自ら未だ得度せざるに、先ず他をということ。
つまりは、自分が道を得るより、他の人を渡らせましょうということだと思います。
私は予備校講師なので職業柄一方的にまくしたて多弁であるため、生徒に『寸鉄人を刺す』言葉をうっかりちりばめてはしないかと絶えず注意している。
ドラゴン桜の原作に出てくる平野源一郎氏の『私とは何か「個人」から「分人」へ』を読んだ時、私は同じ芥川賞作家の三田誠広氏『僕って何?』を思い出した。
タイトルはほぼ同じである。
他にも林修氏の『今でしょ』を見た時それより数十年前にロビーウィリアムズの主演の『今を生きる』を思いだした。
良いものは同型反復しますね。
まだまだあるが今日はこの辺にしておく。
キリスト・釈迦・・・・
欲が捨てきれないから修業をした。
欲がないのも欲があるのも良しとしなかった。
欲を捨てたいのが欲だということに偉人ほど気づいていない。
普通の人はそこそこ欲を叶え楽しんでいるではないか。
昔の人気予備校講師は大教室に100人以上の生徒を集めて講義をしていた。
そこで芸人顔負けのギャグや面白い話や泣ける話や感動する話や・・・・を上手に取り入れつつも
生徒に講義内容をわからせることにもたけていた。
当然その100人以上の生徒は予備校が用意した同じテキストで学んでいた。
なので講師も充分に講義の準備ができていた。
面白い話ができるほどに。
でも今は完全マンツーマンで100パーセントに近い形で生徒が教材を持ってくる。
そしてその教材は学校の教科書はもちろんのこと、副教材や課題である。
当然のこと一人ひとり持つてくる教材は違う。
今日の宿題をその日の夜、塾に持ってきて講義してくれという注文も多い。
その場で初めて見る問題の解答と解説を出していくという授業が必要になってきている。
何十年も講師をしているが、この形式はひやひやする。
昔のように全体の中で生徒にわからせようとするだけではなく、特に一人ひとりに合わせるという考えが必要になっている。
ここで真実を言うと【本当にわかるとはこういうことだという体系的な講義は今の時代はウケない=生徒は真の意味での理解をわかっていない】
ではどうすればよいか。
結局のところ、生徒に合わせながら(学校の教材を手伝ってやりながら)、うまく調子を合わせていずれ体系的に理解できるようにちょいちょいと知識をはさんでいくしかない。
伊藤琢哉はこの先がどうなるかわからないことをどんどんやるべきだとしか思えずいままでやってきた。
脳なしだからやれたのだろう。
私は頭でっかちと言われるが行動はいつもその真逆。
その点今の人たちはこうすればこうなるというシュミレーションというか選択肢をたくさん持ちすぎだと思う。
自分のやりたいことをやるだけといってほしい。
失敗をしてもやりたいことを何か月かはできたのなら人生儲けものなのだから。
例えば受験で言えば不合格になっても受験勉強という準備段階そのもののお勉強が楽しかった。
それゆえ本番で不合格でもどうってことないといきたい。
一家の大黒柱の男に一番必要な力は【おしゃべり力】である。
例えば父親の職業が予備校講師・塾経営者である場合、家族や生徒にわかってもらえないとアウトである。
年がたつにつれ子供の反抗期が来たり、おっさんになったりして中年太りしてくると腹が出て昔のような人気講師でいられなくなってくる。
他者に自分の良さを分かってもらえなくなった時点から表現方法を変えたり、時代に合った表現の努力をする必要が出てくるといえる。
分かってもらわないと(生徒からのアンケートが悪くなり)首になり生きていけなくなり困ることでしょう。
優秀な方が今大学・予備校・ITO ACADEMYの講師を兼業していたりします。
当校から東大の先生になっていった人もいました。 以上
おまけ
学ぶとは?
ものは近くに寄るから大きく見えるだけで(ものが見え)でもそれは遠くにいた時見ていたものと同じものです。
分かるということはひょっとしたらこういうことではないかと思うんだ。
教育とは何だろう?
遠くのものを見るために生徒に行かせるのではなく(生徒に近くに行かせるのではなく)生徒の近くにものを持ってきてものが大きく見えるまでの距離を生徒が歩んでいくのを省く教育が今までは跋扈していた。
これではだめだ。
少々教えない塾を見習わねばならない。
自学自習や失敗したとき自分のケツは自分で拭くように時には指導しないといけない。
そうなのだ。
俺たちは【比例】という概念を作っていくんだ。
これぞ教育の醍醐味だー。
なんでも同じと言う風に処理しようとすることに警笛を鳴らしたい。
そんなに簡単ではないということを2つの例を挙げてみていくことにする。
病院での検査と学生の成績というメルクマールで見ていこう。
まずは前者の例だが血圧は上が120前後、下は90未満で良いだろうと伊藤琢哉は勝手に考えている。
血圧の基準も厚労省が何回も変えているからあてにならないが・・。
諸外国のものとも違うし・・・。
これは概念の世界だと思った。
頭で何でも考えるから【測る】のである。
健康診断で身長の平均が出ているのはこれまた概念ではないかと思う。
ドラゴン桜の桜木=阿部寛、中央理工学部卒は190センチ以上なのをコンプレックスに思う必要はなかったと伊藤は思う。
でも彼は身長をごまかしていたらしい。
彼に限らず基準、概念に人はかくも弱い。
次に学校の成績を見てみよう。
3X=9
X=3
と解けない人がいる。(成績が悪くなる)
理由は文字と数字は違うということしか頭に浮かばないそうだ。(思考停止=エポケーの問題だけではない)
そういう生徒にA=Bというと頭が真っ白になる。
頭の中はじゃーBって文字はいらないんだなと思ってしまう。
多様性の時代だからよいのか?
多様性とは伊藤に言わせれば各人の感覚ということに近い。
AとBは違うという感覚を持った子はこれからの人生で【何が自分の基準を壊すのか】を注意して生きて行けと 伊藤琢哉は諭す。
このようなことは高学歴の大学生講師には指導できない。
生徒と約30年向き合ってきた伊藤琢哉であってもなかなかできないが講師業関係者の中では一番うまく処すことができると信じてやまない。
追記
最も通知表は左にある数字よりも右にある協調性があるかどうかの◎のほうが社会に出てからも大事である。