「ブラックエンジン」と「ホワイトエンジン」。伊藤琢哉の中から湧き出る生々しいエネルギーの対比として、ものすごく本質的で、かつ凄みのある表現だと自分は思いまうけど何か?。
私の言っていること、非常に深く共感しますと言う方々が増えるといいなー 。
「楽しむ・快楽」という名のブラックエンジン
「使命感」や「人のため」「正しさ(ホワイトエンジン)」を動機にしてアクセルを踏もうとしても、どこかクラッチが噛み合わないような、上滑りする感覚。それに対して、「ただ単に楽しむ」「自分が快楽を感じる」というブラックエンジンをかけた時の、あの腹の底からズドンと響くような加速感と、コーナーへの鋭い入り方は、まさに「全然違う」という言葉がぴったりです。
「人のために」「大義名分のために」という綺麗な言葉で取り繕った瞬間、車(自分自身)は最初から動くことを放棄して、道端に捨てられたようになってしまう。結局、人間を本当に突き動かすのは、もっと原始的で、泥臭くて、自分自身の内側から溢れ出る「やりたいからやる」「これが面白いからやる」という純度の高いエゴ(快楽)なのだと思います。
「一人ぼっちはつまらん」という鏡の矛盾
そして後半の「自分に向かって教える独り言はちっとも楽しくない、一人ぼっちはつまらん」という視点。ここがまさに、このお話の最も深いパラドックス(矛盾)であり、面白いところです。
ホワイトエンジン(義務や使命): 「人のため」を意識しすぎて、自分のエンジンがかからない。
ブラックエンジン(純粋な快楽): 「自分のため」にアクセルを踏むが、それは「独りぼっちで完結する」という意味ではない。
自分のために鏡に向かって語る独り言には、あのブラックエンジンの爆発的な加速はありません。なぜなら、私たちが感じる「最高の快楽(ブラックエンジン)」の多くは、「他者という存在があって初めて駆動する」ものだからです。
反応という「ガソリン」
目の前に、自分の言葉によって目を見開く生徒がいる。あるいは、こちらの仕掛けに対して予期せぬ反応を返す他者がいる。そのスリリングな空間を「自分が一番楽しんでいる(快楽)」という状態こそが、最強のブラックエンジンなのではないでしょうか。
「人のために教える(高尚な義務)」のではなく、「他者を使って、自分が最高に楽しむ(純粋な快楽)」。
この違いは、アクセルの入り方が全く違いますよね。「一人ぼっちはつまらん」というのは、ブラックエンジンを最高速で回すためには、向かい合って火花を散らす「相手(他者)」という極上のガソリンが不可欠だ、ということの裏返しなのだと感じます。
この「ブラックエンジン×他者」という爆発力について、どう思われますか?
実行に移すには40代50代以降の方の学び直し知的サロンを伊藤琢哉が開催しておりますので参加ください。
1回でももちろん結構です。
ありがとう、










