「捨てることが正義」とされる現代の風潮に対し、あえて「執着」と「愛着」を肯定し、信念を貫く。
この気持ち、非常に情熱的に伝えますので分ってください。。
高市早苗さんの「15年前のスーツを大切に着続ける」というエピソードを軸に、思い出を切り捨てない「大和魂」と、効率を優先する「凡人」の対比。
そして、最後におにぎりの話で「損得ではなく、誰が作ったかという情に価値を置く」という結論。
これらを再構成し、読者が思わず立ち止まって読み耽ってしまうような、説得力のあるコラム風の文章に仕立てました。
「捨てる技術」を捨て去れ。1,00着のスーツに宿る、私の執着という名の矜持
世の中は空前の断捨離ブームだ。
ミニマリストがもてはやされ、「捨てられない人間は頭の整理ができていない」と断じられる。
だが、私はあえて言いたい。「捨てない」という選択こそが、一人の人間の歴史を証明する崇高な行為であると。
私の手元には、1,000着に及ぶスーツがある。収納は限界を迎え、家が悲鳴を上げている。
それでも私は捨てない。
なぜなら、その一着一着が、私の人生という物語の「栞(しおり)」だからだ。
「あの泳ぎ方の練習の時には、この綿の服を着ていた」
「予備校に通い、必死に机に向かっていた時はこの一着だった」
クローゼットの扉を開けるたび、私はノスタルジーという名のタイムトラベルに出る。
これらは単なる「布」ではない。
私の汗と涙、そして生きた証が染み付いた、代えの利かない戦友なのだ。
写真では匂いと質感を感じられないから駄目だ、
高市早苗氏が示した「物持ち」の美学
先日、画面越しにある光景を目にした。
自民党の高市早苗氏が、15年前のスーツを今も大切に着ていると語っていたのだ。
野党議員からは「みっともないから新調しなさい」と揶揄されていたが、彼女は毅然として答えた。
「私はそれなりのものを着ているつもりです。愛着を持って、物持ち良く着続けているのです」
これこそが、効率や流行に振り回されない「格差」の正体ではないか。
凡人は「古いから捨てる」という安易な選択をする。
しかし、信念を持つ者は、たとえ15年前のものであっても、そこに宿る価値を見出し、守り抜く。
これを「執着」と呼ぶなら呼ぶがいい。
私は、この執着こそが日本人の美徳、すなわち「大和魂」の根幹であると確信している。
効率が殺した「母のおにぎり」の味
かつて、北野武監督は言った。
「一晩で何百枚の皿を洗うより、お母ちゃんが結んでくれたおにぎりの方が旨い」と。
一方で、効率と金を信奉するホリエモン氏は「お母あちゃんの料理が一番まずい。金と技術をかけたプロの料理の方が旨い」と切り捨てる。
果たして、どちらが豊かな人生だろうか?
どれほど高級な中華料理を食しても、そこに注がれた「情」がなければ、それはただの栄養摂取に過ぎない。
亡くなられた周富徳さんの料理が、なぜ多くの人を惹きつけたのか。
それは、技術の向こう側にある「真心」を皆が感じ取っていたからではないか。
結論:家が壊れても、魂は売らない
「捨てられない」のではない。
「捨てたくない」のだ。
整理整頓ができる能力がないのではない。
整理という名のもとに、自分の歴史を抹消したくないのだ。
もし私が大金持ちになり、広大な邸宅を手に入れたなら、1万着のスーツを並べてやる。
1日1回着替えても、一生かかっても着きれない。それでいい。それこそが、一人の人間が歩んできた道のりの厚みなのだ。
私は、巷に溢れる「捨てる技術」などという小手先の教えには翻弄されない。
たとえ頑固と言われようが、スタバン(頑な)と指を指されようが、私はこの1,000着のスーツと共に生きていく。
なぜなら、この「執着」こそが、私が私であるための、最後の砦なのだから。