ハ・・・ころびそうになってハッとすることが増えた
ヒ・・・息が切れてヒーヒー言うようになった
フ・・・太【フと】りすぎて、すぐフらふらするようになった
へ…ヘルニアが悪化しないか、いつも心配している
ホ・・・ホホエミ【微笑み】が減った
年月は人を変えますね。
ハ・・・ころびそうになってハッとすることが増えた
ヒ・・・息が切れてヒーヒー言うようになった
フ・・・太【フと】りすぎて、すぐフらふらするようになった
へ…ヘルニアが悪化しないか、いつも心配している
ホ・・・ホホエミ【微笑み】が減った
年月は人を変えますね。
伊藤琢哉という人物が本来の意味での【批判】を行うものであるとはっきり自覚したのは、このブログを書いていく過程においてでありました。
ちなみに、クリティーク【批判】とは他者を誹謗したり中傷したりすることではありません。
批判とは、、自己及び他者の表現を可能にしている想念、思念、観念、そして概念といった様々なこころのはたらきのクライテリオン【基準】を批評し、さらにそれらの働きが無効となるクリティカル・ライン【臨界線】がどこに惹かれるかを判定することだといえましょう。そうであればこそ、クリティカルな精神状態は批判的であると同時に危機的なのです。
ところがこの列島では予備校講師は蛇蝎【だかつ】のごとき人種である、とみなす劣等な言葉使いがはびこっています。そのことを先刻承知の上で
【吾人は予備校講師なり】と自ら声高く名告るだけでなく【予備校講師ふぜいが何を言うか】と軽んじられることに対して、【その蔑み(さげすみ)が吾人の活力を刺激してくれるので】と感謝の弁をのべている、列島人に非ざるがごときものがここにひとりいます。
誰あろう伊藤琢哉にほかなりません。
ここに書くのが200回目になりました。
今までお付き合いくださりありがとうございました。
さて私はドライブが好きだけれども、昔、ドライブが趣味の先生に聞いたことがある。
【ドライブの時に何を考えているのですか】と。
この問いに対して、なかなか正直なその人は、『いや、伊藤くん。ドライブ中はいろんなことを考えるが、全部パッパッパッパッと消えていくんだよ】
と言われた。例えば、【あっあの花はきれいだな】とか、【あっ今日は雨だな】と瞬間的に想念が浮かぶだけで、それが連続しないんだと。
そういう意味で※アドホックなリズムというのは、大げさに言うと現代文明そのものが、どんどんすっ飛んでいく車窓の光景のようなちょちょ切れたものになっているのではないか。
これはやっぱり現代文明の一つの表れとして出ていると解釈できるんだろうと思う。
※特別の、特にこのための、その場限りでの、そのためだけの、『これに関して』の意味
例えばポリシー、政策について分類学をやる人がいました。これが私に言わせると、かなり胡散臭い。
つまりPOLICY TO HELPという助ける政策と、POLICY TO SOLVEという解決する政策が2つあるというわけらしいのです。
困った人が生まれたら、弱者救済で助けに行くというのが前者であり、それに対して、民間活力を沸き立つようにしておくことにより、貧乏人が生まれるという構造そのものを解決するというのが後者である。そういう風に言ってみせるのね。
それを聞いたら、一瞬そうかなと思うでしょう。でも、例えば問題解決するために市場を活性化しなければならないとしたときに、ではどうすれば市場が活性化するかと言ったら、弱者たちが、簡単に言えば道端で寝っころがったり、明日の飯の心配をすることなく、ある程度の余裕を持ちながら、将来に活力を向けてマーケットへ取り組まなければならない。そういう人々がもっと増えなきゃいけないわけね。
そうしたら、この場合のPOLICY TO HELP とPOLICY TO SOLVEというのは、知人の言うようにきれいさっぱりに分離できないはずなんですよ。
でもそのあたりのレトリックが、私に言わせれば、ものすごく薄っぺらだなと見えるけれども、多くの人々をある方向へ誘導することは可能でしょうね。
だから思想論、分類論はあると思いますが、知人の言葉づかいは非常にずるいと思う。自問自答が全然ないからね。【知人とは仲が良いからこういうことが言える間柄です、知人の言葉は知人の許しを受けて載せています 安心してください・・・・・・】
幸福なことに日本では、十六代天皇の仁徳天皇は孔子(講師)と同じような人徳の高い聖人であり君子でした。
『仁』というもの『徳』というものを自分の立志として国を治めた。
国民【塾生】を真心を込めて思いやる、感謝をする。
そういう天皇【講師】になろうとして、『仁徳』と名付けたのです。
即位四年目のある日、高殿にのぼって、庶民の生活を見たら、民家から煙が一つもたってない。
私が即位して四年間、何をやってたんだ、私の政治が悪いから、こうやって庶民が竈の焚けないような状況になっているんだと、自分の政治を反省します。
仁徳天皇はこのような困窮した国民から税はとってはいかんということで、三年間の課税を停止しました。【授業料金相談システムを日本で初めて開発します】
そして自分は質素を極めた生活をし、宮殿の修理も一切しないで貧しい生活に我慢します。【伊藤は授業料金を勘案した結果、貧すれば鈍します】
伊藤が授業料やテキスト代金の一部を肩代わりするというシステムは日本では初のことでした。
『君主論』を読むと、なるほどとうなずけるのは君主の条件の一つとして、征服者が現地に赴いて移り住むことを挙げているんですね。
そこを読んでパット連想したことは、公害問題のことです。
つまり社長という人種は、公害を引き起こした現地の工場があるところに住んでいない場合があるんですよ。
水俣のようにね。
あるいは四日市のようにね。
そうすると、最低でもそこに住んでいれば、もっと早くわかるわけですよね。
生産と生活が分離しているからそうなるんですが、このマキアヴエリでさえも、征服者は現地に赴けと言っているのかと思いましたね。それはある種の威厳を示すためだということと、もう一つは泥を被るという話ですけれども。
結局、為政者が現地に住むことの意味は、支配者なら支配者の人格がものをいうということだろうね。
どんな顔で、どんなしゃべり方で、どんな歩き方をするかも含めて、為政者を信頼するかどうか為政者を受け入れるかどうかは、最終的にはその人格的なところにきてしまうのだということです。
日本のインテリたちはルネサンスについてヒューマニズム、人間礼賛や人間再発見ということだけを強調していますけれども、ルネサンス期のイタリアは奇妙奇天烈な奴を排出する中で、要するにイタリア人は賭博師になったという話もある。
中世が崩壊する中で、人間を再発見するんだけれども、人間というものは、立派な道徳家になれると同時に、狐にもライオンにもなれるわけでしょう。
ある場合には言葉の賭博師、言葉の詐欺師にもなれるわけです。
だからその点を強調すると確かに人気講師たるものは、アンケート結果により収入が激減するという危機に満ちた中で、言葉の賭博師に近いような能力をギリギリまで発揮しているということなんだろうね。
だからトリックスター(詐欺師・神話や民間伝承などで、社会の道徳・秩序を乱す一方、文化の活性化を担うような存在)の様に矛盾したことも講義の中で言っているわけですよね。
決して常に、狡く(ずるく)あれということではなく、いわばオポチュニズム(日和見主義・便宜主義・ご都合主義)のような話ですね。
格言ばかり言う大人、校長先生、先生は多いと思います。
でも、さすが格言だと思うのは、よく見ると、全部正反対の格言を伴っています。
たとえば、【子孫に美田を残さず】という。
子供たちに財産を与えれば、子供たちは甘ったれになってどうしようもないと言いながら、逆に言えば、【貧すれば鈍する】と言う。
貧しくなったら性格も悪くなるぞと忠告する。
つまり、子供たちに対して親は美田も残してはいけないし、貧しくさせてもいけないという2つの相反する格言が存在している。
【子供たちに美田を残してはいけません】と言い放つだけで終わらず、子供を勝手に生んでおいて財産の一つもなしにどうするんだという、状況が変われば成り立つ議論にも応じる。
併せて語らなければ語ったことにならないんですよ。
※アドホックで、脈絡がないことを言う先生が多い。
【いや、たまらんなあ】と思いますね。
ラテン語由来の、どちらかと言ったら軽蔑語で、場当たり的という意味です。
講師は授業アンケートで評価され収入が決まるから大多数を占める合格実績とは無縁の学力下位層に進度やレベルを合わせた授業をする講師ほど集客し人気講師になる。 だから人気講師ほど雑談時間が多く、前期でテキストの4分の1も終わらなかったりする。授業内容も薄かったりする。そういうことを知らない人が大手の人気講師の講義に群がっています。
でも笑わせてくれるので、その科目が好きになり良いと思います。
進度が遅いのは困りますがね。なぜなら一定の時間内で英語などは特に大量の問題を処理する能力が問われますから。