木曽の山奥に行けば、ある種の我慢を強いられます。
貧しさとか、寒さとかいろいろあると同時に、そうであるがゆえに、自分のパッション、情熱を掻き立てなければやっていけないと思う。
今、ふと思い出したんだけど、パッションという言葉は情熱と訳しますが、もとは、パッシブという受身形でキリスト教にいておいてもそうですが、本来は、苦しみを受けるという意味なんです。
つまり受苦の情熱、苦しみを受ける情熱という非常に怪しげなものなんです。
日本人は、パッションというと、非常に積極的に出ることだけを連想しますがね。
ポジティブにとらえているけども違うと。
もともとは苦しみを受けるという意味ですから、宗教感覚に近いものなんでしょう。
例えば、気に入らない男のところに嫁ぐ女の例を挙げてみよう。
私は想像してしまうんですが、鄙びたところに行くと、情熱と忍耐というものが怪しげに絡み合うばかりか、、しかも、女性となれば、発言の場もないし、権力も振るえないということで、いっそう内向する。
そういう内圧が高まっているところへ、気に入らない男のところに嫁げと言われたら、これまでの我慢と密かにメラメラと燃やしていた情熱の火が爆発的に発火してしまうんじゃないだろうか。