50代で「京大」を7回受けた、京大セブン。
キョウダイセブン
第1話
便利を追及した日本社会は、21世紀になって「先生」まで便利に量産してきた。私は、
「それは違うんだよね」
と、ここに書き残したい。
第一章 「英検1級」を、取ろうね
私の亡き父はウザかった。高校入試の合格発表についてきたし、就職したら2時間以上かけて勤務していた塾まで挨拶にきた。
高校2年生の時までは、理系に進むつもりだった。ロボットを作りたかった。しかし、四日市高校は当時男子の割合が高くて男子クラスがあり、私はその男子クラスに放り込まれた。
今もその傾向があるが、当時も男子生徒は理系が多くて私はその中で理系に行くのが当然だと思って勉強していたが、数学の勉強を始めるとめまいがするような感じがし始めた。
それは、公式の成り立ちを納得していないのに無理やり使わされることに生理的な拒否感が生まれたらしい。模試の結果によると、文系なら難関国立大に合格できるけれど、理系だとそこまではムリという結果。泣く泣く「教育学部」に進むことになった。
生きていくには英語講師になるしか選択の余地はなかった。しかし、その英語でも真摯に向き合うと問題だらけだった。
最初に
「何かおかしいぞ」
と気づいたのは、1982年にアメリカのユタ州ローガン中学校で社会の授業をしている時。同席していたネイティブの教師が、しばしば私の授業を中断して生徒に向かって説明し始めた。
「ミスタータカギが今使った単語の意味はね、---」
と解説を始めた。それで、一番仲のよかった理科教師のアランに
「なんで私の授業を中断するのかな?」
と相談したら
「お前の英語は綺麗だけど、ビッグワードを使いすぎなんだ」
とアドバイスをくれた。それで、注意して職員室の会話などを聞いていると、確かに中学レベルの英語を使っている。自分が受験勉強で習った難解な単語など全く出てこない。
not more than と no more than の違いなど、使わないのだからどうでもよかった。私の塾生たちは、高校で与えら得た「システム英単語」を使って単語をいっぱい覚えているが、多分ムダになる。
アメリカから帰国した私は公的な資格を取ろうと思って、とりあえず英検1級の過去問を書店で入手した。そして、知らない単語や表現を見つけてウンザリした。
もはや、高校生の時のように
「頑張って勉強しないと」
と自分を責める気になれなかった。私はネイティブの助けを借りて問題を解き始めたが
「これは何だ?なんで、日本人のお前がこんなものを」
と言う。それで、
「どういう意味?」
と尋ねると
「こりゃ、シェークスピアの時代の英語だよ」
と笑っていた。
しかし、アメリカから名古屋にある7つの予備校、塾、専門学校に履歴書を送付しても全て無視されたので、私は日本の英語業界で認知されている資格を取らざるをえなかった。
事実、英検1級を取ったらどの予備校、塾、専門学校も返事が来るようになった。結局、コンピューター総合学園HAL、名古屋ビジネス専門学校、河合塾学園、名古屋外国語専門学校などで14年間非常勤講師をすることになった。
その間に出会った英語講師の方たちの中に、英検1級を持っている人はいなかったし、旧帝卒の講師の方もいなかった。資格を持たないと雇ってもらえないという私の見方は誤っていた。
私はその頃には受験英語を捨てていた。どの資格試験の英作文も面接試験も、すべてアメリカで使っていた英語で通した。つまり、中学生レベルの英語を使って難解な内容を表現する英語だった。
ところが、今はまた受験英語を指導している。高校の入試問題も、大学の入試問題も30年前から何も変わっていないのだ。受験参考書の構文も、相変わらず take it for granted that や not until の世界なのだ。
日本にやってくるALTが増えて、
「日本の教科書はクソだ」
とか
「英語が話せない教師が英語を教えている!」
と言っても誰も耳を貸さない。そして、偏差値追放、小学校から英語を、と意味不明の政策を打ち出す。私のいる予備校、塾業界も暴走族講師やらマドンナ講師やらパフォーマンスばかり。
そして、それをマスコミが煽る。賢い生徒はあきれ返って「マスゴミ」と揶揄している。
しかし、一体いつまでこのようなバカな状況が続くのか。
でも、本当に英語教育界にまともな人はいないのだろうか?私が四日市高校や名古屋大学の教育学部で出会った学生の中にはまともな人もいた。それで、日本一レベルが高い東大や京大を受けてみることにした。
京大は英語の試験が和訳と英作文という珍しい大学だ。それで、まず「京大模試」とZ会の「京大即応」を受講してみた。京大模試は河合、駿台、代ゼミなどを10回。Z会は8年間やって、じっくり研究してみた。
ランキングに載り、Z会からは「六段認定証」というのももらったが、毎回の添削は納得がいかなかった。京大模試の採点も同様だ。それで、
「いったい、だれが採点してんだ?」
と思い調べてみた。しかし、企業秘密で分からない。ただ、自分が勤務していた予備校の講師レベルだろうとは推測できた。受験参考書どおりの訂正がなされていたからだ。
京大を受けた時は、最初の2回は「受験英語」で書いてみた。すると、6割正解くらいだった。私の英語がそんなレベルであるはずがない。それで、次の2回は「資格試験」の参考書に書いてあったような古い口語で書いてみた。それでも、7割くらいの正解率だった。それで、最後の3回はアメリカで使っていたような中学レベルの英語で書いてみた。すると、8割正解に跳ね上がったではないか。
やっぱり、京大の先生は一流だ(笑)。
私の指導させてもらっている優秀な生徒も同じ感想を持っているらしい。
「あの先生は、自分で京大を受けたら確実に落ちる」
と、京大医学部に合格した子が言っていた。それで、
「この子たちなら、私の言うことが分かる」
と、英語の添削を始めた。
すると、やっぱりというか次々と京大合格者が出始めた。それだけではない。京大医学部、阪大医学部、名大医学部、東京医科歯科大学、三重大医学部など、どこにも有効なのだ。
大学の先生は、やっぱり賢い(笑)。
でも、そんなことを言ったら蛇蝎のごとく嫌われた。日本は和を重んじるだけで、議論をさせないプレッシャーが半端ない。
みんな食っていかないといけないので、英語が話せなくても、生徒が志望校に落ちても、そんなこと関係ない。自分の生活が優先。そういうことらしい。でも、それで犠牲になる生徒たちはどうなるのだ。大人の責任を放棄していることにならないか?
北勢中学校にいる時は英語が一番嫌いだった。点数もよくなかった。数学は理科、社会、国語と同じで特に意識した科目ではなかった。総合点でトップクラスにいたので、それで満足だった。
試行錯誤を繰り返す私に父は
「大学院に行きたいならお金は出してやるぞ」
などと言った。
第二章 「京大数学で7割をとろうね」
数学に対する執着は残っていた。
最初に
「ボクは数学が苦手なのだろうか?」
と疑問を持ち始めたのは、四日市高校の2年生の頃。1970年代の四日市高校は男子の割合が大きく、男子クラスがあり私は男子クラスに在籍していた。
当時、男子は理系に進むのが大多数だった。その中にあって、テストの度に数学が壊滅的な点数になっていた。全国の模試なら、そこそこでも四日市高校の男子クラスではどうしても周囲の子と点数を比較してしまう。平均点と比べてしまう。
点数だけでもない。三角関数、対数、微積分と進むにつれて
「もうボクの頭には入りきれない」
と友人にぼやいていたのを思い出す。物理で13点を取り、
「こんなのありえない!」
とショックを受けて、クシャクシャにして捨ててしまった。私は数学の公式を使う場合に、
「証明できないと、使う気になれない」
というタイプだった。今思うと、それでは前に進めない。結局、自分が何をやっているのか分からなくなり気持ちが混乱し始めた。そして、1974年の大学受験の5日前を迎えた。
2階の勉強部屋で数学の勉強をしていたら、突然手足が震え始めて椅子からズリ落ちてしまった。そして、
「お父さん、ボク変だ」
と叫んだ。二階に駆け上がって来た父は、ひっくり返った亀のように手足をバタバタしている私を見て
「お前、何をしてんだ」
と言った。そして、近くの総合病院に担ぎ込まれた。病院の看護婦さんは、私の手足を押さえつけながら
「アレ?高木くん、どうしたの?」
と言った。北勢中学校の体操部の先輩だった。
診断は、神経衰弱。いわゆるノイローゼとのことだった。私は頭が狂うことを心配したが、医者が言うには
「そういう人もいるが、身体に症状が出る人もいる」
とのことだった。そうした経験を通して
「自分は、どうも文系人間らしい」
と覚悟した。それで、名古屋大学「教育学部」で勉強している時に
「自分は先生かなぁ」
とボンヤリ思っていた。それで、卒業後は英語講師として勤務を始めた。数学に触れるのは、自分にとってタブーになっていた。それから、20年ほどひたすら英語の勉強をしていて数学は求められて中学レベルだけ指導をしていた。民間では、英語講師だけでは仕事が得られないのだ。
ところが、自分で塾を始めると
「明日は理科なのに、英語の授業ですか?」
と生徒から文句が出始めた。それで、英語、数学についで、理科、社会、国語の指導もせざるをえなくなった。そのうち優秀な子が来ると、高田、東海、灘、ラサールなどの難関高校の数学の過去問にも手を出さざるを得なくなった。そして、ある日気がついた。
そういう優秀な子は
「高校に入っても指導をお願いできませんか?」
とリクエストが入り始めた。最初は、英語だけという約束だったのに中学生と同じで数学の質問も入り始めた。それで、考えた。
「灘高の入試問題の数学が解ける私なら高校数学も大丈夫かな?」
と考えた。
「高校クラスも作りたいし、試してみる価値はあるかな」
と思って、近所の本屋さんに行って高校数学の参考書・問題集の棚を見た。なつかしい「オリジナル」が目に入った。四日市高校の悪夢が蘇った。
それで、恐る恐る手にとって中身をのぞいて見た。ひっくり返ってから25年以上が過ぎていた。まだトラウマがあり、手が震えた(笑)。しかし、驚いたことに、25年前の記憶が残っておりどんどん解けた。
中学の数学を徹底的に教え込んでいるうちに基礎が固まったのか、中年になって精神が鍛えられたのか、よく分からない。とにかく、「オリジナル」を2周、「一対一」も2周、「チェック&リピート」も2周、「京大の数学」も2周。並行してZ会の「京大即応」を8年間やり続けた。
その間に腕試しに「京大模試」を10回、「センター試験」を10回、「京大二次」を7回受けた。
そのくらいやらないと、優秀な生徒の指導には役立たない。成績開示をしたら、京大数学で7割正解だった。「暁6」の特待生、「国際科」の上位の子を指導しても困らなくなった。
しかし、そういう点数の問題だけではない。自分の中で大きな変化が起きた。数学アレルギーが全く消えた。トラウマが消えた。怖くなくなった。今では
「まぁ、たいていの問題は質問されても困らないだろう」
とリラックスして授業に臨める。当塾は、大規模塾のように準備した授業を一方的に話すスタイルではなく、生徒の質問に答える形式なので常に本番なのだ。
今では、英語より数学の方がはるかに面白いと思える。だから、私は19歳の時点で「文系」「理系」に分類することに疑問を持っている。人間はそんなに簡単に分類できるものではない。
文系だった私が今では
「この世の現象は数式で表現されない限り、分かったと言えない」
と信じている。これは、完全に理系の発想だろう。
学校では習わなかった「数学3」も独学で勉強している。そうこうしているうちに30年も過ぎてしまった。まさに、
「少年老い易く学成り難し」だ。
ただ、分かったことがある。私は自分の指導させてもらっている理系女子のような才能はないのだけれど、人の何倍も苦労して数学を身につけたために「生徒はどこでつまづきやすいのか」がよく分かるようになった。これは、数学講師としてはスゴイ武器になるのだ。
ひっくり返って、病院送りになったり、受験会場で不審者扱いを受けて入場拒否をされたり、みっともないことが多かった。お世話になったホテルの人も最初は送迎バスは父兄は乗れないと勘違いしてみえた。
しかし、それもこれも必要なことだった。
「とても頭に入らない」が「わかる!」に変わる瞬間を知った。
こうして、今は英語と数学の両方が指導できる講師として重宝されている。
考えてみると、高校生の時に吐きそうな思いで数式を見ていた時から30年が経過した。高校生の方は私もそうであったように2年後、3年後しか見えていないはず。そりゃ、そうだ。私もまさか自分がアメリカで生活したり、数学Ⅲを勉強するハメになるなんて予想ができるはずがなかった。
父は亡くなる前に自分が大学入試に落ちた話をしていた。戦争で中国に行ったとも言っていた。大学に行って戦争に行くのを避けようとしたのだろうか。今となっては分からない。
私の進学に強い関心を示していたのは、自分の原体験があったのかもしれない。もっと優しく接していたらよかったが、もう遅い。
皆さんも、今の段階では想像も出来ない経験をするはず。私たちがネット社会の到来に驚いたように、時代も激変を繰り返すだろう。そんな高校生の方たちに言えることがあるとすると、ありきたりだけれど
「目の前のやるべきことに全力を尽くすこと」
くらいだろう。それは、自分自身にも言えることだが。
そして、ご両親を大切にしてあげてください。
第三章 「京都大学の英語で8割を越える」ための一考察
1、問題意識(1)
京都大学の入試問題は「英文和訳」と「英作文」のみのため、その採点基準がブラックボックスとなっている。「どのような基準で採点されているのか」正確に答えられる教師、講師はいない。採点されている先生も分かっていない可能性がある。
私は名古屋大学の教育学部を卒業し、アメリカの公立中学で教師をし、30年以上予備校・塾・専門学校で受験指導を行ってきた。その関係で多くの英語教師、英語講師に接する機会があった。アメリカ人はもとより、イギリス人、オーストラリア人、アイルランド人など多くのネイティブと接する機会があった。
そこで分かったことは、日本には大別して3種類の英語があることだ。それは、「受験英語」「資格英語」「ネイティブ英語」の3種類だ。
受験英語と呼ばれるものは学校や塾で指導されている。受験参考書や問題集も多い。
資格英語は、英検やTOEICなどのことを指す。こちらは、塾や予備校とは別系統のECCなどの英会話教室で指導が行われている。ネイティブが指導することも多いし、LLや音声教材を使用することが多い。
そして、最後がネイティブの英語だ。私は英検1級や通訳ガイドの国家試験の勉強の途中でネイティブと話すことが多かった。彼らに英検などの問題を見せるといつも
「なんだ、これは。なんで日本人のおまえがこんな問題をやらねばならぬのか」
と尋ねられた。アメリカに住んだことがあるので、彼らの疑問はよく分かる。実用英語検定という名前だが、現在使用されている英語とは異なっている。
そこで、
「では、京都大学の入学試験の英作文ではどのタイプの英語が評価されるのか」
これが、この考察の問題意識だ。
問題意識(2)
第一段階として、英語の実力がなければ調査ができないテーマのため「受験英語」「資格英語」「ネイティブ英語」を知ることから始めた。
受験英語は現役で名古屋大学教育学部に合格し、受験指導を30年間行ってきたので、よしとした。
資格試験は英検1級、通訳ガイドの国家試験、国連英検A級、ビジネス英検A級を合格した時点で、よしとした。
ネイティブ英語は、アメリカのユタ州ローガン中学で1年間教師をし、帰国後英会話教室などでネイティブと20年間交際してきたことで、よしとした。
第二段階は、京大英語の専門家と呼ばれる人たちの英語力と指導方法を確認することだった。それで、まず名古屋の7つの予備校・塾・専門学校で英語講師を14年間した。
また、河合塾と駿台の「京大模試」を計10回受けてみた。定評のあるZ会の京大即応コースを8年間継続して、どのように採点されるのかもチェックしてみた。その結果、
1、講師に旧帝卒レベルの方がほとんどいない。
2、英検1級所持の方はほとんどいない。
ことが判明した。
講師や採点者の応募資格をチェックしても、明確な基準がない。提出した答案に対する添削も受験英語の域を出るものではなかった。赤本の模範解答を作成する予備校講師も、受験英語の参考書の域を出るものではなかった。
そこで、自分で京都大学を受けて確認する必要性を感じた。
2、研究方法
京都大学を実際に6回受験してみて、成績開示をする。その際、最初の2回は「受験英語」、次の2回は「資格英語」、最後の2回は「ネイティブ英語」を意識した書き方をしてみる。
その結果の平均値を比較することにより、どのタイプの英語が高く評価されるのかを考察する。年度による難易度の差、学部により採点者が異なると思われるので、そこも考慮して考察してみる。
3、調査の実施
平成18年、20年(文学部) 正解率の平均 66%(受験英語)
平成21年、22年(教育学部) 正解率の平均 76%(資格英語)
平成24年、25年(総合人間) 正解率の平均 79%(ネイティブ英語)
最高が81%であったので、Youtube 、 ブログ、ホームページ上において
「私以上の人がいたらお知らせください」
と挑発したところ、2件の報告があった。82%であった。また、京大が公表している最高点は総合点だけであるが、8割程度なのでこの8割は英語単独の最高点と考えてよいと思われた。
4、結果の分析と考察
この結果によると、サンプルが7個では有意差の検定が出来ない。しても、意味がない。また、
1、私が受験慣れした。
2、受験、資格、ネイティブの訳し分けが曖昧。
3、年度、学部による難易度、採点の厳しさの違い。
などの変動要因が考えられて、単純に「ネイティブ英語が最も評価される」と結論づけられないかもしれない。
しかし、この調査結果と京大教授の置かれた状況ーつまり、英語で論文を発表して評価されなければならない状況ーを考慮に入れるとどうなるだろう。
三重県の人口5万人程度の小さな塾の塾長である私が指導したら京大医学部、阪大医学部、名大医学部などに合格者が出た事実も考慮に入れたらどうだろう。私はネイティブ英語に変えて書くべきだと指導している。
5、結論
以上の結果より導き出される京大英語で8割を超すための対策は、「ネイティブ英語とは何か」を定義づけして学ぶことに尽きるだろう。
たとえば、「この料理はまずい」という英作文なら受験生に多いのが
This dish tastes poor. しかし、これは評価されない。なぜなら、英語として正しくてもマナー違反。英検英語なら否定文にして、This dish isn’t good. これでマナーは改善された。
しかし、ネイティブなら I don’t like this dish. と言うだろう。本当に不味い場合は、Yuck!と叫ぶ。そういう違いだ。
問題は、
「受験英語の参考書や問題集で取り上げられている構文や表現が現実に使われている英語と違う」
という事実。それを指導している教師や講師も、外国生活がなく50年前の表現を気づかずに指導していること。そのために、校内テストや模試で高得点や上位の順位をとっても落ちてしまうこと。
6、今後の課題
この検証を行うためには、受験英語、資格英語、ネイティブ英語の3つをよく知る人が必要だ。しかし、現実にそのような人は稀なので追試が困難と思われる。しかし、今後「受験英語」「資格英語」「ネイティブ英語」は1つに収れんしていくべきである。
その1つとは「ネイティブ英語」であるべきことは、多くの英語指導者が同意すると思われる。ただ、問題はネイティブ英語を指導できる教師、講師が決定的に不足しているため目標が明らかになっても対応はできないことにある。
第四章 「A子ちゃんのこと」
もう10年以上経ったから書いても人物が特定できないだろう。長く受験指導をしていると忘れられない生徒がいるものだ。A子ちゃんも、その一人だ。
私の塾に来てくれたのは彼女が小学6年生の時のことだった。最初に面接した時に、一目見て
「この子は賢い子だ」
と分かった。学力を確認しようとプリントを渡したら、いつまで経っても提出しようとしない。完全に仕上げるまで粘る子だった。
彼女は小学校の時から
「私は医者になりたい」
と言っていた。私の塾はそういう子が多い。しかし、家庭は金持ちではないので何がなんでも国立大でないといけないと覚悟していた。私の小学校時代とはえらい違いだ。
中学校では猛勉強して常に学年でトップクラスだった。そして、
「自治医大だと無医村に行けば学費が浮くとか聞いた」
とお金がなくても医者になれる情報を集めだした。私もできるだけ協力して情報を収集した。
そう思わせてくれる塾生だった。
灘やラサールや東海の過去問を集めて練習する授業も彼女から始めた。そして、当然のように四日市高校の国際科に合格した。
その頃、メールやファイルが普及し出したので私はさっそく
「家庭学習中に出た質問はなんでも送れ」
と塾生に檄を飛ばした。私は中学生は5科目、高校生は英語と数学に対応できるのだ。ところが、そんなサービスも怠け者には何の意味もない。
しかし、A子ちゃんはほとんど毎日ファイルを送ってきた。その質問の内容も勉強していないと出来ない質問ばかりで感心することが多かった。私は、A子ちゃんからどれほどの力をもらったことだろう。実は、白状するが高校の数学を指導しようと決めたのは彼女の影響が大きい。まさか、塾生に背中を押されるとは。
英語に関しては、高校の時に英検の準1級に合格した。だから、英検1級の先生が必要になった。私は彼女の書いてくる英文の日記を読みながら添削をし始めた。これが、後にネットによる通信生の募集につながった。まことに、A子ちゃんが私に与えた影響は大きい。
1級レベルのアドバイスをすると、たいていの生徒の方は
「何を言っているのか分からない」
という反応だったけれど、A子ちゃんは私の意図することを即座に理解するため、授業も楽しかった。語彙や文法が正しければ良い英作文が書けるわけではない。
当たり前だが、マナーやエチケット、採点官に対する思いやりが欠ける英作文は高く評価されない。学力だけではなく、そういう人間的な深みがないと見込みがない。浅い理解では京大などの難関大は合格できるものではない。
実は、私に京大を7回も受けさせたのも直接的にはA子ちゃんの影響が大きい。
「この子は日本の宝だ。何としても志望校に合格させなければ」
と思った。出来ることは何でもやる。娘以外の人間で、私にそんな思いをさせたのはA子ちゃんが初めての生徒だった。
A子ちゃんは、あるクラブに所属して大会で入賞する成績をおさめていることは耳にしていた。ところが、高校2年のある時、自主的にそのクラブを引退した。理由は分からなかったけれど、成績が伸び悩んでいたのが理由だということは推測できた。
私は、彼女の覚悟というか気魄に驚いた。
「先生はバツイチでも、1回結婚できたからいいですよ」
と笑っていた。言葉の端々にクラブばかりか、彼氏も結婚も何もかも犠牲にしても医者になるんだという決意が満ちていた。彼女のクラスがある時は、楽しかったけれど緊張した。
「この仕事を始めてよかった」
私にそう思わせてくれた塾生の子は多いが、彼女はダントツの存在だった。
A子ちゃんは家庭環境にも、経済的にも恵まれていなかった。多くの生徒は、過酷な環境に置かれるとグレるか性格が歪む。しかし、彼女は厳しい環境を自分を育てる肥やしにできる稀な子だった。
「政策金融公庫と奨学金と私のバイトで何とかする」
そういうA子ちゃんだった。そして、ある時ボソっと
「お母さんが生命保険を解約するって・・・」
と小さな声でつぶやいた。しかし、その目には絶対に合格するという覚悟が見えた。
そんな貴重なお金を塾に提供してくれるのだから、リキを入れないわけにはいかない。損得勘定などなかった。何としても合格してもらわなければならなかった。彼女が多くの患者さんを救うことは間違いない。待っている人がいっぱいいる。
私は中学・高校時代を通じて、A子ちゃんと言えばジャージと思っていた。たまに制服で来てくれたけれど、女子度はゼロ。可愛い髪飾りを付けるでもなく、フリフリの洋服を着るでもない。もちろん、髪振り乱して勉強ということはなく、清潔にしていたけれどファッションに時間も金もかけるヒマはなかった。
女子に「質実剛健」という言葉はおかしいのだけれど、A子ちゃんにはピッタリの言葉。私は戦前の教育は知らないけれど、両親を見ていて想像はついた。歴史小説に出てくる一昔前の大和撫子。
これは偶然ではない。今、私の塾に各中学校のトップクラスの生徒が何人もいるけれど、理系女子はほとんど女子度ゼロ。平均的男子より理路整然と話す。そして、質実剛健。日本の未来は明るいと思わせてくれる。
A子ちゃんは、その後「国立大学医学部」に現役合格して「旧帝の大学院」で学び、現在は研究職に就いている。私はA子ちゃんを長く見ていて思うことがある。
A子ちゃんは気づいていなかったが、当塾では彼女の指導から生まれた教材群のお陰で、その後なんと「京大医学部」合格者が3人も続出した。私の塾の救世主でもあったのだ。
現在の日本では、道を外れたギャル、ヤンキー、暴走族あがりの生徒や講師をもてはやしお金がそちらに流れる構造が出来ている。しかし、本当はA子ちゃんのように目立たなくても人々の役に立っている、道を外れない子にお金が流れるべきではないか。
「女子高生」の画像検索結果 画像と文章は関係ありません。
第五章 「ある日、帰宅したら妻がいなかった」
20年前のある日、仕事を終えて家に帰ったら妻がいなかった。あの日から私のシングルファーザーの生活が始まった。翌日より、食事の世話や洗濯は母の助けを借りて何とかやりくりしてきた。
というのは、ちょうど同じ頃にバブルが弾け、少子化で塾生の数が減り始め、大規模塾が進出してきて、トリプルパンチをくらい、仕事が厳しい環境に置かれていたのだ。
「ボクが夜逃げしたら、母は生きていけるかなぁ」
私が大学2年生で留年した年の夏休み、両親は心配したのだろう。どういうわけか、私の短期アメリカ旅行のために50万円を支払ってくれた。決して裕福ではない親だった。親戚からお金を借りていることも知っていた。
自分が父親になって、子供三人を大学に行かせるためにお金を用意するのは大変だった。今更ながら、親のありがたさを感じている。
「そんな母親を置いて夜逃げか・・・」
当時、ボクは何を考えていたのだろう。月末の給与の支払いの金策ばかり考えていた。生徒を増やす方法ばかり考えていた。
百五銀行も、桑名信用金庫も、政策金融公庫も、すべて信用保証協会につながっていて融資は限界。電気屋さんに見積書を作ってもらい、融資を引き出し、娘の学費を名目にお金を借りた。
カードローンも、レイク、プロミス、UFJなど4つ。アイフルには断られるありさま。確定申告の額が低すぎたのだ。中京銀行には
「個人塾は負け組み」
と罵られ、学書の支払いを遅らせていたら
「近いうちに伺います」
と言われ、怯えていた。
食器棚をモノマニアに売ろうとしたら
「10年以上のものはガラクタです」
と言われた。
「そうか、私はガラクタに囲まれて生きていたんだ」
日曜も、祝日も関係なく、365日働いてもダメだった。奥さんが連れていった末娘はわずか三歳、次女は小学生の低学年、長女は高学年だった。そんな子供たちの顔を見ていたら、過労死など怖くなかった。
父が私のためにかけてくれていた生命保険を解約し、母の年金ばかりか、葬儀のための積み立てさえ崩させてしまった。娘にお金をせがまれても、出せなかった。もと奥さんのために買った指輪は、下取りでも1万円にしかならなかった。
本当に亡くなった父に顔向けができなかった。ろくでなしの息子だった。
土地を売ろうにも、遺産相続がうまくいかないし、リバースモーゲージは都会のみと言われるし、もう万事休すで夜逃げか首吊りだと思った。
その当時、講師を2名雇っていたが、どうしても1人クビにしなければならなかった。そしたら、1人の講師と大喧嘩になりクビにできた。外国人の講師で、日本が嫌いな講師だったのだ。
講師の先生には、このままでは倒産であることを話していたから、退職金の話はでなかった。講師をクビにできたお陰で、
· 退職金を出す必要がなくなった。
· 融資を受ける必要がなくなった。
· 高校クラス、通信制が軌道に乗り始めた。
あれは、まさに千載一遇のチャンス。神様のご加護だった。
「もうダメだ」
と思った時に、生徒が来てくれ、知恵を絞って金策に走り回っていた。娘の大学入試が迫り、貯金通帳を持ち出したもと奥さんから取り返さなければならなかった。
あとで分かったことだが、奥さんは再婚するため離婚を焦っていたのだ。
もちろん、守りだけに奔走していたのではない。この地区は少子化だし、過疎の町だし、何より進学に興味がある人がほとんどいない。だから、心の中で見捨てた。
もっと大きなマーケット。そして、ネームバリューのあるもの。私ができることを考えた。それも、お金がないのでタダで出来るもの。そこで考えたのが、京大生むけの英作文の添削の通信生。その構想は以下のようなものだった。
· 全国をマーケットにして
· 京大という日本で有数の知名度を利用し
· 京大を受けて、成績開示をし、
· ブログやYoutubeの動画は無料だから、広報する。
京大は、毎年1万人くらい受験する。Z会の仕組みはわかっていた。添削者に質問できないのが弱点だし、添削者の実力が開示されていない。信用できない。
この1万人の1%でもお客様になってもらえたら100人だ。見込みはある。写メやスキャンを使って親切丁寧にやれば受け入れられるはず。そう信じたものの誰もやったことがない試み。どうなるか分からなかった。
「私は英検1級、通訳ガイドの国家試験に受かっている。大丈夫だ」
やるしかないのでセンター試験に願書を出したら受験会場は三重大のある教室。偶然にも、長女と同じ教室で受験だった。
結局、Z会は8年間、京大模試は河合と駿台あわせて10回。センター試験は10年連続して受け、京大の二次試験は7回受けた。そして、成績開示を塾のホームページ、Youtube、アメブロ、フェイスブックなどで公開した。
高校数学は、オリジナル、1対1、チェック&リピート、赤本をそれぞれ2周やった。
全力を注いでも、必ずしもうまく行くとは限らない。そして、その時に誰も手は貸してくれない。家族のためなら鬼にも夜叉にもならなければならない。私は娘たちのためなら悪魔に魂を売ることも辞さない覚悟だった。
学校のように、人工的に与えられた「愛」や「絆」ではなく、踏まれて蹴られて地面を這いつくばって、絶望のどん底でもがき、戦って、それでも残った思いだけが「愛」や「絆」と呼べるもの。
世の中は移り変わってゆく。それなのに、何もせず抵抗勢力にしかなれない人と仲間にはなれない。自分の愛する人たちを守るには、そういう自滅していく人たちと関わるわけにはいかない。
「勝手に滅びろ!」
私は、手を貸してくれなかった人たちを恨み、呪いの言葉をはいていた。
人は親子でさえ、なかなかうまくいかない。バツイチになった私は夫婦でもうまくいかないことを知っている。ましてや、他人で「絆」が結べるのは一生に何人いるのだろう。
そういう現実を知っている塾生の子たちは
「また、学校の先生がきれいごとを・・・」
とバカにするのだ。
離婚後の食事はコンビニおにぎりが主食だった。
ところが、成績開示をしたら通信生や通塾生が増えて、合格実績はどんどん上がっていった。個人指導の高校生も増えてきて、歯車が良い方向にまわり始めていった。
ウナギ丼は限りなくウマイ。コンビニの死んだ食べ物ばかりで身体が悲鳴をあげていた。生きた食べ物を身体が求めていた。温かい食べ物を身体が求めていた。生き物の本能を抑えることはできない。
女性と関わるのは、もう懲り懲り。自由な発想ができないと、ビジネスはうまくいかない。ビジネスがうまくいかないと罪の無い子供たちが飢えてしまう。
私は、奥さんが敵にまわるとは想像もできない迂闊な男だった。今は子供たちも独立し、そろそろ自分の夢を再開するつもりだ。
第六章 「暴露」
ここまで読んで下さった読者の方を気づかれたと思います。この駄文は、小説の形をした体験談です。私はプロではないので、物語を捜索する才能などありません。以前、自分のブログで綴ったところ「元気をもらいました」というメールを頂いたので、私の経験も少しは人の役に立つと知ったわけです。
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