お知らせ

昔のブログのコピペ

昔のブログは少しかたかったかもしれませんね。

再度示します。

伊藤琢哉の偏見についての意見

さて重い話にお付き合いくだされば幸いに存じます。

偏見とは英語でprejudice

pre➡前もっての

judice➡=judgement;判断

判断のためには前提がなきゃーイケナイ

どこまで行っても前提の判断が必要

でも、流布されている言葉・前提的な判断の言葉

➡どれがまっとうな前提の判断かわからない

偏見はなくならないのでより強い偏見でぶち壊すしかない

(その先には暴力が待ち構えているかもしれない)

例えば

●昔の話

明治維新=テロ 西郷隆盛が徳川幕府のlawに逆らった

アメリカ;イギリスの植民地用のlaw があった

イギリスの植民地用のlaw 。。。。。=そもそもテロ

●ちょっと昔の話

テロ撲滅(ブッシュ)➡おっしゃる通り【日本列島一色】

テロの恐怖:lawを外れた力が恐怖をもたらす

◆小泉純一郎氏がアメリカの立場に立っている=撲滅される側の立場に立っていない

=撲滅される側からするとアメリカのほうがテロ

★コロナ問題については触れません。ノーコメント。

伊藤琢哉ここにあり

避我が国においてもグローバル化が言われて久しい。いうまでもなく、グローバル化とは、企業活動や市場などの主として経済活動を国際化、世界標準することであり、その中で英語は中心的な役割を果たす。
当予備校での講義は英語を中心として行う。講義は精読を通し、塾生の英語能力のbrush upを図り、速読即解法も伝授する。入試にとどまらず、実社会に出た時に十分活用できることを目的にする。
ただし、英語が必ずしも得意でない塾生も多数いることから、折に触れ、英文法の整理と復習を行い、基礎学力の習得と向上を目指す。以下に塾長の講義風景を載せる。旧名古屋予備校(現在のメディカルラボで英語人気NO1だった講師である)立教経営を優秀でもない成績で出る。アナウンサー試験はいつも最終試験で落とされる。フリーターをする度胸もないため、(現)東京海上日動火災に総合職正社員として働かせていただく。あまりにも仕事ができないこととやりたい職業があったため、損保は3年で退社。夢叶い今まで何とか予備校講師を続けている。以上

 

【ひなん】は10個あり避難と非難をかけている

何を持って決断するの?!

人間はいつでも決断をする。

どうして決断できるのだろうか。

考えてみようではないか。

まさかどっかから神様の声が聞こえてくるわけでもあるまい。

自分の情念が異様にほとばしってと決断したいうわけでもあるまい。

人生の分岐点に立たされた時に決断の連続を今までいやっちゅう程やってきたこと・・・

それ自体が習慣性と言ったらおかしいけれどある種の決断の知恵をつけて来てくれたのだから経験知が決断を容易にさせてくれていると思いたい。

同型反復

ドラゴン桜の原作に出てくる平野源一郎氏の『私とは何か「個人」から「分人」へ』を読んだ時、私は同じ芥川賞作家の三田誠広氏『僕って何?』を思い出した。

タイトルはほぼ同じである。

他にも林修氏の『今でしょ』を見た時それより数十年前にロビーウィリアムズの主演の『今を生きる』を思いだした。

良いものは同型反復しますね。

まだまだあるが今日はこの辺にしておく。

偉人は俗っぽい

キリスト・釈迦・・・・

欲が捨てきれないから修業をした。

欲がないのも欲があるのも良しとしなかった。

 

欲を捨てたいのが欲だということに偉人ほど気づいていない。

普通の人はそこそこ欲を叶え楽しんでいるではないか。

その場ですぐに

昔の人気予備校講師は大教室に100人以上の生徒を集めて講義をしていた。

そこで芸人顔負けのギャグや面白い話や泣ける話や感動する話や・・・・を上手に取り入れつつも

生徒に講義内容をわからせることにもたけていた。

当然その100人以上の生徒は予備校が用意した同じテキストで学んでいた。

なので講師も充分に講義の準備ができていた。

面白い話ができるほどに。

 

でも今は完全マンツーマンで100パーセントに近い形で生徒が教材を持ってくる。

そしてその教材は学校の教科書はもちろんのこと、副教材や課題である。

当然のこと一人ひとり持つてくる教材は違う。

今日の宿題をその日の夜、塾に持ってきて講義してくれという注文も多い。

その場で初めて見る問題の解答と解説を出していくという授業が必要になってきている。

何十年も講師をしているが、この形式はひやひやする。

 

昔のように全体の中で生徒にわからせようとするだけではなく、特に一人ひとりに合わせるという考えが必要になっている。

 

ここで真実を言うと【本当にわかるとはこういうことだという体系的な講義は今の時代はウケない=生徒は真の意味での理解をわかっていない】

ではどうすればよいか。

結局のところ、生徒に合わせながら(学校の教材を手伝ってやりながら)、うまく調子を合わせていずれ体系的に理解できるようにちょいちょいと知識をはさんでいくしかない。

 

 

 

あえて険しい道を選びたい

伊藤琢哉はこの先がどうなるかわからないことをどんどんやるべきだとしか思えずいままでやってきた。

脳なしだからやれたのだろう。

私は頭でっかちと言われるが行動はいつもその真逆。

 

その点今の人たちはこうすればこうなるというシュミレーションというか選択肢をたくさん持ちすぎだと思う。

 

自分のやりたいことをやるだけといってほしい。

失敗をしてもやりたいことを何か月かはできたのなら人生儲けものなのだから。

 

例えば受験で言えば不合格になっても受験勉強という準備段階そのもののお勉強が楽しかった。

それゆえ本番で不合格でもどうってことないといきたい。

 

男に一番大事なもの

一家の大黒柱の男に一番必要な力は【おしゃべり力】である。

例えば父親の職業が予備校講師・塾経営者である場合、家族や生徒にわかってもらえないとアウトである。

年がたつにつれ子供の反抗期が来たり、おっさんになったりして中年太りしてくると腹が出て昔のような人気講師でいられなくなってくる。

他者に自分の良さを分かってもらえなくなった時点から表現方法を変えたり、時代に合った表現の努力をする必要が出てくるといえる。

分かってもらわないと(生徒からのアンケートが悪くなり)首になり生きていけなくなり困ることでしょう。

優秀な方が今大学・予備校・ITO ACADEMYの講師を兼業していたりします。

当校から東大の先生になっていった人もいました。 以上

 

おまけ

比例

学ぶとは?

ものは近くに寄るから大きく見えるだけで(ものが見え)でもそれは遠くにいた時見ていたものと同じものです。

分かるということはひょっとしたらこういうことではないかと思うんだ。

 

教育とは何だろう?

遠くのものを見るために生徒に行かせるのではなく(生徒に近くに行かせるのではなく)生徒の近くにものを持ってきてものが大きく見えるまでの距離を生徒が歩んでいくのを省く教育が今までは跋扈していた。

これではだめだ。

少々教えない塾を見習わねばならない。

自学自習や失敗したとき自分のケツは自分で拭くように時には指導しないといけない。

 

そうなのだ。

俺たちは【比例】という概念を作っていくんだ。

これぞ教育の醍醐味だー。

 

 

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