塾長日記

200回目になりました 199回読んでくださりありがとうございました

ここに書くのが200回目になりました。

今までお付き合いくださりありがとうございました。

さて私はドライブが好きだけれども、昔、ドライブが趣味の先生に聞いたことがある。

【ドライブの時に何を考えているのですか】と。

この問いに対して、なかなか正直なその人は、『いや、伊藤くん。ドライブ中はいろんなことを考えるが、全部パッパッパッパッと消えていくんだよ】

と言われた。例えば、【あっあの花はきれいだな】とか、【あっ今日は雨だな】と瞬間的に想念が浮かぶだけで、それが連続しないんだと。

そういう意味で※アドホックなリズムというのは、大げさに言うと現代文明そのものが、どんどんすっ飛んでいく車窓の光景のようなちょちょ切れたものになっているのではないか。

 

これはやっぱり現代文明の一つの表れとして出ていると解釈できるんだろうと思う。

 

※特別の、特にこのための、その場限りでの、そのためだけの、『これに関して』の意味

かなり胡散臭い分類学をやる人が、知人にいました

例えばポリシー、政策について分類学をやる人がいました。これが私に言わせると、かなり胡散臭い。

つまりPOLICY TO HELPという助ける政策と、POLICY TO SOLVEという解決する政策が2つあるというわけらしいのです。

困った人が生まれたら、弱者救済で助けに行くというのが前者であり、それに対して、民間活力を沸き立つようにしておくことにより、貧乏人が生まれるという構造そのものを解決するというのが後者である。そういう風に言ってみせるのね。

それを聞いたら、一瞬そうかなと思うでしょう。でも、例えば問題解決するために市場を活性化しなければならないとしたときに、ではどうすれば市場が活性化するかと言ったら、弱者たちが、簡単に言えば道端で寝っころがったり、明日の飯の心配をすることなく、ある程度の余裕を持ちながら、将来に活力を向けてマーケットへ取り組まなければならない。そういう人々がもっと増えなきゃいけないわけね。

そうしたら、この場合のPOLICY TO HELP とPOLICY TO SOLVEというのは、知人の言うようにきれいさっぱりに分離できないはずなんですよ。

でもそのあたりのレトリックが、私に言わせれば、ものすごく薄っぺらだなと見えるけれども、多くの人々をある方向へ誘導することは可能でしょうね。

だから思想論、分類論はあると思いますが、知人の言葉づかいは非常にずるいと思う。自問自答が全然ないからね。【知人とは仲が良いからこういうことが言える間柄です、知人の言葉は知人の許しを受けて載せています 安心してください・・・・・・】

仁徳天皇の政治手法から編み出された当校の授業料安心相談システム

幸福なことに日本では、十六代天皇の仁徳天皇は孔子(講師)と同じような人徳の高い聖人であり君子でした。

『仁』というもの『徳』というものを自分の立志として国を治めた。

国民【塾生】を真心を込めて思いやる、感謝をする。

そういう天皇【講師】になろうとして、『仁徳』と名付けたのです。

即位四年目のある日、高殿にのぼって、庶民の生活を見たら、民家から煙が一つもたってない。

私が即位して四年間、何をやってたんだ、私の政治が悪いから、こうやって庶民が竈の焚けないような状況になっているんだと、自分の政治を反省します。

仁徳天皇はこのような困窮した国民から税はとってはいかんということで、三年間の課税を停止しました。【授業料金相談システムを日本で初めて開発します】

そして自分は質素を極めた生活をし、宮殿の修理も一切しないで貧しい生活に我慢します。【伊藤は授業料金を勘案した結果、貧すれば鈍します】

伊藤が授業料やテキスト代金の一部を肩代わりするというシステムは日本では初のことでした。

 

トップに対する信頼は人格に帰する 君主論を読んで

『君主論』を読むと、なるほどとうなずけるのは君主の条件の一つとして、征服者が現地に赴いて移り住むことを挙げているんですね。

そこを読んでパット連想したことは、公害問題のことです。

つまり社長という人種は、公害を引き起こした現地の工場があるところに住んでいない場合があるんですよ。

水俣のようにね。

あるいは四日市のようにね。

そうすると、最低でもそこに住んでいれば、もっと早くわかるわけですよね。

生産と生活が分離しているからそうなるんですが、このマキアヴエリでさえも、征服者は現地に赴けと言っているのかと思いましたね。それはある種の威厳を示すためだということと、もう一つは泥を被るという話ですけれども。

 

結局、為政者が現地に住むことの意味は、支配者なら支配者の人格がものをいうということだろうね。

どんな顔で、どんなしゃべり方で、どんな歩き方をするかも含めて、為政者を信頼するかどうか為政者を受け入れるかどうかは、最終的にはその人格的なところにきてしまうのだということです。

 

人気講師の心がけ

日本のインテリたちはルネサンスについてヒューマニズム、人間礼賛や人間再発見ということだけを強調していますけれども、ルネサンス期のイタリアは奇妙奇天烈な奴を排出する中で、要するにイタリア人は賭博師になったという話もある。

 

中世が崩壊する中で、人間を再発見するんだけれども、人間というものは、立派な道徳家になれると同時に、狐にもライオンにもなれるわけでしょう。

 

ある場合には言葉の賭博師、言葉の詐欺師にもなれるわけです。

 

だからその点を強調すると確かに人気講師たるものは、アンケート結果により収入が激減するという危機に満ちた中で、言葉の賭博師に近いような能力をギリギリまで発揮しているということなんだろうね。

 

だからトリックスター(詐欺師・神話や民間伝承などで、社会の道徳・秩序を乱す一方、文化の活性化を担うような存在)の様に矛盾したことも講義の中で言っているわけですよね。

 

決して常に、狡く(ずるく)あれということではなく、いわばオポチュニズム(日和見主義・便宜主義・ご都合主義)のような話ですね。

格言ばかり言う大人、校長先生、先生、親、自分

格言ばかり言う大人、校長先生、先生は多いと思います。

でも、さすが格言だと思うのは、よく見ると、全部正反対の格言を伴っています。

たとえば、【子孫に美田を残さず】という。

子供たちに財産を与えれば、子供たちは甘ったれになってどうしようもないと言いながら、逆に言えば、【貧すれば鈍する】と言う。

貧しくなったら性格も悪くなるぞと忠告する。

つまり、子供たちに対して親は美田も残してはいけないし、貧しくさせてもいけないという2つの相反する格言が存在している。

【子供たちに美田を残してはいけません】と言い放つだけで終わらず、子供を勝手に生んでおいて財産の一つもなしにどうするんだという、状況が変われば成り立つ議論にも応じる。

併せて語らなければ語ったことにならないんですよ。

 

※アドホックで、脈絡がないことを言う先生が多い。

【いや、たまらんなあ】と思いますね。

ラテン語由来の、どちらかと言ったら軽蔑語で、場当たり的という意味です。

人気予備校講師の実態

講師は授業アンケートで評価され収入が決まるから大多数を占める合格実績とは無縁の学力下位層に進度やレベルを合わせた授業をする講師ほど集客し人気講師になる。 だから人気講師ほど雑談時間が多く、前期でテキストの4分の1も終わらなかったりする。授業内容も薄かったりする。そういうことを知らない人が大手の人気講師の講義に群がっています。

でも笑わせてくれるので、その科目が好きになり良いと思います。

進度が遅いのは困りますがね。なぜなら一定の時間内で英語などは特に大量の問題を処理する能力が問われますから。

 

伝統があることのみを強調する学校

伝統は革新の連続だということはよく言われます。

私にとっての伝統というのは、別に壺だとか茶碗ではなく、人間なり人間集団なりの美徳と悪徳の状況に応じたバランスのとり方のことなんです。

そういう至難至極の表現法というのは、こんなお粗末な頭からそう簡単に出てくるわけはないのであって、長い歴史の流れの中で、美に偏りすぎて聞こえよがしになったり、悪に傾きすぎてこれ見よがしになったり、◎そういう失敗と※たまの成功の中から、こういう状況ではこうやればいいという知恵のようなサジェッション、示唆が出てくる。

それを与えるのが伝統だと考えると、伝統というのは、決して物質的、実体的なものではなく、知恵ある表現ということ。

ずっと過去から何かが示されているというようなものではないかと伝統を定義したことがあります。

※伝統以外で急成長している学校 医歯薬系の学校に多い。

◎伝統とずいぶん過去の栄光しか謳えない学校

 

猜疑心と信頼心

猜疑心と信頼心は表裏一体になっていると思います。

入塾する際は猜疑心に満ち満ちています。

信頼心は体験学習の後の実際、講義に入ってからですね。

 

 

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