塾長日記

変化することはよいことですか?

変化することはいいとか、変化すればいいということでは困るのであって、変わればいいんだと言っているうちに、それ自体が自己目的化するから、変化を追求することは問題だというようなことを、指摘する友人がいた。

伊藤も同じことを25歳の時に予備校の広報誌に書いた覚えがあるからそうだなと思っていた。

ところが友人の言う最終段階で何が起こるかというと、一番大事なのは、ありがとうという気持ちだという。

私があなたに何かを差し出し、ありがとうと言ってくださる。【生徒の講義後、講師がおごるなど】【生徒が講師から莫大な情報量をもらうなど】

あなたから何かをもらって、私もありがとうという。【生徒から教壇にたくさんの差し入れをもらうなど】

こういう、【贈与と、それに対する感謝の気持ち】というものが教える側と教わる側の間にあるというんですよ。

そりゃ私もその言葉を認めないわけじゃないよ(笑)

ところがちょっと理屈っぽいけど、問題は、ありがとうが大事だということで事が済むためには、私とこの友人、講師と生徒の二人の関係が非常に安定していて、昔のあなたと今も全然変わっていないということが前提になるわけです。

お互い変わってないから、街角で会えばお年賀有難うとか、お歳暮ありがとうとか、ニコッと挨拶するわけですよ。

しかし変化の激しい社会となれば、こういう友人はとうにいない。

昔なじみが周りから消える。

別な人が現れる。

一体相手が何を考えているのかなかなかわからない。

つまり、人間関係においてどんどん不確実性が高まるわけですよ。

そうしたら、贈与をされたとしてもこの贈与はひょっとしたら賄賂かもしれないとか、自分の権威を見せびらかすための贈り物かもしれないとか、様々なことが浮かんでくる。

だから、ありがとうの気持ちが大事だということを言うためには、※マルセル・モースの『贈与論』※を持ってくるだけでは不十分で、当然、現代社会批判を痛烈に展開しなければケリがつくわけがないんですよ。

せっかく変化を求める現代社会について言及しているのに、変化をよしとする時代の中で贈与はどうなるかは、なぜ論じないか?

※フランスの社会学者。民族学者。叔父にあたるデュルケムの社会学理論を踏襲し、贈与は『全体的社会事実』であると主張。

レウ”=ストロースに大きな影響を与えた。代表作は『贈与論』

 

 

宗教~カルト

カルトとは何ぞやということを書きたいと思う。

カルトとは何ぞやということを書く前提として未開の文化を調べたレウ”ィ=ストロースという文化人類学者が呪術の原初形態についてこう言っているんですね。

おまじないとは、化学、サイエンスの始まりだと。

その意味は、簡単に言うと、因果関係を追うということです。

サイエンスの場合は、例えば万有引力によってリンゴが落ちるという因果関係を追っていく。

原初形態としての呪術の場合は、例えば先祖に何か関係があるから、先祖の祟りでこういう事態が起こったんだという形で、原因があって結果があることを示す。

これが呪術の世界だと彼は言う。

それで私はある宗教団体Aを見てこう思ったんです。

皆さんはAを宗教団体だと思っているが、レウ”ィ=ストロース的に言えば、宗教団体ではなくて、呪術、おまじないの世界なのだと。

怪しいという意味ではなくて、因果関係に注目するわけです。

そうであればこそ、多くの自然科学系の参加者がいたんだよね。

医者やエンジニア。

そうした自然科学系の入信者が、なぜ多かったのか。

私はなるほどと思った。

因果関係、因果関係と追って、化学でまだとらえきれていない領域にまで因果関係を追おうとすると、結局、現代の呪術的なものだということになり、A的なものが出てくるんだろうと気づいたんです。

 

雑談 塾長は落伍者

私は、初めて公言しますが、公立高校入試を失敗しました。〝15の春を泣かすな″のスローガンはハズレてしまった。担任の先生からは絶対合格のお墨付きをもらっていたのにもかかわらず当日、頭が真っ白になってしまった。

周りからは模範生と言われていたので、その分余計に※切歯扼腕※してしまった。

大方の人は元・悪から今は善良になったとか、偏差値で元30だが今は70超え【河合の偏差値ではないだろう】とか、振れ幅が大きい人のところに話を聞きに行くが賢明な方々は偏差値がどんなに頑張っても河合塾で55前後それを高校3年間のがり勉と一浪で60代にして、六大学にギリギリ合格【東大を除く】というすごい人の話を聞きにいかない。

 

振れ幅が少ないし、ストーリー性にかけるからである。いや後者の人をすごいとは、もはやこのユビキタス時代において思えないのである。

失敗からしか人は学べないことを知っていても、講演会は失敗談ではなく失敗した人がなぜ失敗したかを聞くことができない。

なぜなら講演会に呼ばれる人になった時点で成功者であり失敗談が聞けるかもしれないが、率としては少ない。【とはいえ成功している人は人より多くの失敗をし続けている】でもリップサービスとして偏差値30だったというのはどうだろう。失敗すらしていない。何も進んでいないスタート地点なのである。つまり偏差値30だったと聞いて失敗談だと思う人はイカレポンチである。始まってもいないのだ。

このことからも、誇大広告や極論に人は飛びつく癖があることが分かる。

しかし社会に出てからは一生懸命やってもうまくいかないことはいくらでもある。いや、そっちのほうが多いといえよう。

きれいごとを言っているお子ちゃま先生がいらっしゃると教育界でも、周りに迷惑をかけるのである。

若いときは、どの予備校講師もやればできる、やるのは今しかない、・・・・・ということが本気で言える熱血講師が多い。だから今でも(40代・50代でも)予備校講師ができているのである。今でも言えている方々は今でも予備校講師として人気を博している。

だんだん年を重ねていくうちに恥ずかしくなって頑張れば・・・と厚顔無恥というか鉄面皮というか面の皮の千枚張りというか、恥ずかしくて言えなくなってくるものである。

ところで、この業界はふつう、講師の寿命は平均6年と言われている。

しかし大手予備校でも数百人リストラしたように、それでも残っている講師は偉いと言えば偉いと思う。

中には塾講師や私立高校の先生や大学の先生に方向転換していく人もいる。

最近、流行りなのは医療系予備校である。

※切歯扼腕: 歯ぎしりをし、自分の腕を握りしめること。

感情を抑えきれずに、はなはだしく憤り残念がること

大学合格のみならず、社会で通用する人材育成に力点を置いている!

現役中高生を対象として、展開。

大学受験に合格するための学力を身につけるだけでなく、社会に出てからも通用する“一生モノ”の力を養う「リーダー育成」を主眼としている。

【※立教大学経営学部※の教授法に酷似している】

 

元損保マンなどが指導する。

 

単なる偏差値アップにとどまらず、将来に向けての明確な目的意識を重視し、一般的な塾・予備校の集団授業や個別指導とは趣の違う、特徴的なプログラムを開発。

「顧客満足度の高い塾・予備校ランキング」があれば、「カリキュラム」「講師」部門で第1位の評価を受けているだろう。集団授業、個別授業をはじめ、一人ひとりに合わせたものを提案する、オーダーメードカリキュラムを主としている。【いうまでもなく完全個別=1教室に講師1人生徒1人がほとんどである】

※考える力を育成する授業が多いことで東洋経済のランキングに1位で載っている大学 (例)ロイ・ラーク教授の【消費者行動論】などが高評価

講師は応援団

受験勉強の主役はあくまで皆さん自身です。

私は皆さんの案内役・指南役にすぎません。

回り道をせずに、英語を好きになり、理解を深められるよう方向修正をすることがミッション(使命)だと考えています。

長く厳しい受験期間では、横道にそれてしまうこともあるかもしれません。でも心配は無用。常に皆さんの状況を理解し、英語だけではなく、長く厳しい受験期間を乗り切らせてみせます。

そして最後には一緒に学んで行けること、何より皆さんが志望校合格という目標を達成してくれることを楽しみにしています

私と一緒に頑張ってみませんか。

木曽の山奥の女性

木曽の山奥に行けば、ある種の我慢を強いられます。

貧しさとか、寒さとかいろいろあると同時に、そうであるがゆえに、自分のパッション、情熱を掻き立てなければやっていけないと思う。

今、ふと思い出したんだけど、パッションという言葉は情熱と訳しますが、もとは、パッシブという受身形でキリスト教にいておいてもそうですが、本来は、苦しみを受けるという意味なんです。

つまり受苦の情熱、苦しみを受ける情熱という非常に怪しげなものなんです。

日本人は、パッションというと、非常に積極的に出ることだけを連想しますがね。

ポジティブにとらえているけども違うと。

もともとは苦しみを受けるという意味ですから、宗教感覚に近いものなんでしょう。

例えば、気に入らない男のところに嫁ぐ女の例を挙げてみよう。

私は想像してしまうんですが、鄙びたところに行くと、情熱と忍耐というものが怪しげに絡み合うばかりか、、しかも、女性となれば、発言の場もないし、権力も振るえないということで、いっそう内向する。

そういう内圧が高まっているところへ、気に入らない男のところに嫁げと言われたら、これまでの我慢と密かにメラメラと燃やしていた情熱の火が爆発的に発火してしまうんじゃないだろうか。

 

 

英文学というのは日本人が学ぶべき最大のもの

突然ですが社会思想方面の話です。

イギリス、※アングロサクソン※のものはくどくどと書いてあって、一見、シャープでもブリリアントでもないものなので、面白くないんですよね。

でも、複雑なことを平凡な言葉で、ああでもない、こうでもないと論じていくので、案外、読み終わったときに、こちらのほうにズシンと残るものがあるんですね。

だから、英文学、もっと言うと経験論というのかな。

経験の持っている複雑さとか、一筋縄では括られない人間の争いとか、そういうものの全貌、全体を把握する力というか、表現する力が優れているように思う。

英語圏といってもこれはアメリカではなくて、イギリスでしょうけどね。

仏文学や独文学と比べると、やはり福田恒存氏や中野好夫氏の英文学のほうがね。【以前シェークスピアと私で書きました】

私が言うのは口幅ったいんだけれども、私はそういうことを考えたこともある。

※5世紀半ば以降、ドイツの西北部からイギリスに渡って、諸王国を建てたゲルマン民族の一部。

またイギリス国民ないしイギリス系国民の意味にも用いる。

【広辞苑の一部より抜粋】

伊藤をハ行でまとめてみました

ハ・・・ころびそうになってハッとすることが増えた

ヒ・・・息が切れてヒーヒー言うようになった

フ・・・太【フと】りすぎて、すぐフらふらするようになった

へ…ヘルニアが悪化しないか、いつも心配している

ホ・・・ホホエミ【微笑み】が減った

年月は人を変えますね。

予備校講師風情が何を言うか?!

伊藤琢哉という人物が本来の意味での【批判】を行うものであるとはっきり自覚したのは、このブログを書いていく過程においてでありました。

ちなみに、クリティーク【批判】とは他者を誹謗したり中傷したりすることではありません。

批判とは、、自己及び他者の表現を可能にしている想念、思念、観念、そして概念といった様々なこころのはたらきのクライテリオン【基準】を批評し、さらにそれらの働きが無効となるクリティカル・ライン【臨界線】がどこに惹かれるかを判定することだといえましょう。そうであればこそ、クリティカルな精神状態は批判的であると同時に危機的なのです。

ところがこの列島では予備校講師は蛇蝎【だかつ】のごとき人種である、とみなす劣等な言葉使いがはびこっています。そのことを先刻承知の上で

【吾人は予備校講師なり】と自ら声高く名告るだけでなく【予備校講師ふぜいが何を言うか】と軽んじられることに対して、【その蔑み(さげすみ)が吾人の活力を刺激してくれるので】と感謝の弁をのべている、列島人に非ざるがごときものがここにひとりいます。

誰あろう伊藤琢哉にほかなりません。

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