皆さんこんばんは。
今日は想定外の話をします。
以前ブログで地震予知できない地震学者や原発の専門バカは専門以外も馬鹿だったかという事を書かせていただいた。
私は学校へ行くのが毎日嫌だったが、反動形成で
皆勤賞の連続だった。
努力はほとんど報われず、絶対受かる、責任を持つと言われた先生のお薦めの学校を受けたが不合格であった。
浪人経験もある。
アナウンサー試験は最終でいつも不合格。
絶対やりたくない代理店さん営業を損保でやり、皆勤。
予備校講師の仕事も休んだことがない。
ある時から、好きなことで休まずにいられるようになった。【好きな事でも、行く前に吐いて行っていた嫌いな学校でも、休んだことは一度もない】
私の人生を振り返ると、想定外の連続だった。
いつの間にか、凡夫の方々が言うところの、想定外=絶体絶命=失敗などと元凡夫の私には思えなくなった。
耐性ができてしまった。
例えるなら水のようになった。
丸い器に水を入れると丸くなり、▲の器に水を入れると▲になる。
そういう人間になってしまった。
自分の中が人生の時期によって分断されずに、ぶれていないので、かなりの事でも怒らなくなった。
丸くはなっていないが・・・・・。
想定外を戯れ遊んでしまいスルーしてしまう癖がついているので、そこから学ぼうとか、大それたことなど考えない。
自分のせいでも他人のせいでもない。言い換えると自分のせいでもあり他人のせいでもある。つまり何かやろうとすれば結果が必ず伴うということに過ぎず、結果自体はスルー事項である。
いつまでも豪語していたり、嘆いていたり、怒っていたりでは、今後の終わりなき日常を生きることができないよ。
終わりなき日常をタンタンと生きている人が一番偉いんであって、非日常【受験も含む】は自分で選んだことだから、そのプロセスで上達したりできなかったことができるようになったりということでよしとすべし。
試験やギャンブルの結果は水物。
それが嫌なら、今すぐに試験やギャンブルをやめるべし。
危険、責任を取りたくないなら、車の運転もしてはダメ。
危険、責任を取らせたくないなら、車の運転も他者にさせてはダメ。(事故した際、死んでも運転者のせいだけにはできない。運転してもらったあるいは運転させた自分にも責任ありだ)
結果に誰しも、一喜一憂するが駄目な際は人により一生悩んだりする。それでよい。過去を引きずって生きていけるのも受験やギャンブルをすると決めた自分の決断が最初にあるからであって、そうでなければ協力者も登場してこなかったはずである。
責任(部分)とは、全体の一部であるところの一番最初の責任部分が自分が該当するとどんな方でもわかるわけだから。
選んだのは自分なのだから。
責任の一部は何かを始めることを選んだ人にある。
これが不変の真理である。
無目的に生きる。
エポケー。
これらが大事という話は以前、嫌っちゅう程やっているので割愛させていただく。 以上